「頑張る気のない弱者は助ける必要があるか」に対する僕なりの答え
結論から言えば、頑張る気の有無に関係なく、弱者は助ける必要がある。
それは、「弱者がいない公平な世の中を作るため」という正義感に基づいた考えでなければ
「弱者を愛し、彼らを救済するのです」という愛に満ち満ちた考えでもない。
言うなれば、弱者救済は自由主義者の考えにも似た、僕にとっての生存戦略である。
これから書く文章を一言で言い表すならば、こうだ。
情けは人の為ならず。
弱者を助ける必要があるのは、強者に助けてもらう必要があるからだ。
必要があるという言葉はまどろっこしいので、簡潔に言い直す。
弱者を助けるのは自分のためだ。
反対に、弱者を切り捨てることは即ち、強者に自分が切り捨てられるということだ。
仮に切り捨てられたとして、独力で生きていける程度の弱者ならば問題はないだろう。
さきの弱者強者の定義は個人との比較によるものだった。
もし、強者の定義が切り捨てられても独力で生きていけることだとすれば、僕は弱者である。
だから怖いのだ、自分が切り捨てられるのが。
僕は独力で生きていけない弱者であるから、万が一切り捨てられた時のためにも独力で生きていけるような強者になりたい。
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